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第29回 島薗 進(本学会理事長)

『死生観を問う』という本をまとめた私

死生観を身近なこととして考える

 2023年10月25日付で『死生観を問う——万葉集から金子みすゞへ』(朝日新聞出版)という書物が出た。朝日新聞出版のPR誌『一冊の本』に2020年の5月からおよそ2年間にわたって「あなた自身の死生観のために」と題して連載を続け、それに序章と終章を書き足し、全体をあらためて整理して書物としたものだ。
  「あなた自身の死生観」を題に掲げたのだから「私自身の死生観」を考えないわけにいかない。といっても東京大学文学部の講義や上智大学グリーフケア研究所人材養成講座の講義で死生学・死生観について話して来たことがある。それらを「あなた自身」「私自身」のこととして考えられるように語り直すというのがプランだった。
 すでに同じ朝日新聞出版から『日本人の死生観を読む』(2012年)、『ともに悲嘆を生きる』(2019年)を刊行しており、死に向き合う経験や死別の悲嘆の表現について、近代の文芸や思想表現などを通して書いてきた。だが、「知識人の話ですね」とか「やはり難しかったです」という感想をうかがうことが何度かあった。
 そこで、もう一つ生活感覚に近いところで死生観を語るということと、近代以前の文化を遡って、できれば遠く古代にまで近づいてみたいと考えた。近代的な偏り、近代の文字文化の偏りを脱していくと、もう少し身近に語れるのではないかという考えだった。

「戻る」ように「振り返る」ように

 「私自身」に引き寄せるということで両親の死生観を手がかりにしようと考えているうちに、実は両親の感じてきたことから、あまり自分は遠くに来てはいないと思うようになった。それと折口信夫の「魂のふるさと」という語がうまく重なってきて、私なりの死生観の語りの方針が見えて来た。
 20歳代の前半に修士論文で折口信夫について書いた。なので、折口は私が学問研究を始めたときの書物上の先生のような人でもある。折口信夫については、『日本人の死生観を読む』でも触れているが、今度はさらに折口信夫の世界に近づいていくことになった。
両親に導かれその世界になじんで育ち、20歳代に自分の世界を作るときに折口信夫に導かれた。なので、『死生観を問う』では、少年時代の青年時代へと戻っていくような経験をしたことになる。
 両親はすでにおらず、二〇人ほどいた(ほどなどとは失礼だが)おじおばも2021年に最後まで居た伯父が亡くなり、一人もいなくなった。多くを教えられた先生方もほとんど亡くなってしまっている。生きている間はあまりありがたいと思わず、心のなかでけなしたりもしていたのだが、今になってみると実は恩恵を受けていたものが多いことに気がつく。
 遅ればせながら、もっとしっかり思いおこしておきたいと思ったりする。こうなるとふだんから「戻る」ような時間の過ごし方が多くなる。前を見るより「振り返る」ような姿勢でいる自分に気がつくのだ。「魂のふるさと」という言葉がしっくりするように感じるのは、そういう人生史上の経験も反映しているかと思う。

「魂のふるさと」と「無常」

 序章と終章の間に4つの章があるが、第1章が「魂のふるさと」、第2章が「無常」、第3章が「悲嘆」、第4章が「浮き世」を含んだ題になっている。「無常」は仏教の教理と結び付けて考えられることが多いが、実はもっと古い人類の普遍的死生観の層にまで遡るのではないか、このように考えた。
 そこには弱さやはかなさの経験があり、死別や喪失という避けがたい経験があり、無やむなしさにさらされるという経験がある。「無常」はそうした幅広い経験を受け止める語と見なすこともでき、日本だけではなく世界の詩歌・物語の表現とも通じるものと捉えることもできる。
 『ギルガメッシュ叙事詩』は紀元前3千年紀に遡る時期からあるというが、その時代にも宗教的な死生観がすべてではなく、宗教の枠をはみ出すような死生観を語る物語があった。人類の死生観は、このような古層とそこから様々に展開していく宗教的な教義につながる死生観とがさまざまに交わりながら展開してきたもの、そう見ることができるのではないか。

「うた」から感じ取る死生観

 悲嘆の表現は「うた」や芸能や文芸と結びついている。現代人の死生観の表出においても「うた」は大きな位置を占めていると思う。本書ではたびたび「うた」にふれている。童謡や歌謡曲、短歌や俳句、そして漢詩の調べは深いところで心を動かす。
 本書の副題は「万葉集から金子みすゞへ」となっているが、「うた」が表現する死生観を探求することは楽しく懐かしく、「自分自身の死生観」を自覚していくのに役立つと考えた。「うた」は感情との結びつきが深い。死生観にはそもそも感情のレベルが大きく関わっており、「悲嘆」は死生観を感情のレベルで捉える際の鍵となる。
 「浮き世」については中世から近代への死生観の変化について考える手がかりを提供してくれる言葉だ。西行や一茶や金子みすゞらの「うた」は、なぜこれほどまでに現代人の心に響くのだろう。死が心を揺さぶる側面だ。
 それとともに、人はなぜ死を意識しながらも、死を忘れているかのようにこの世の生活に執着しているのだろう。宗教に距離を感じ、共同体への所属感も薄く、孤独の意識を捨てられない近代人の死生観の系譜を「浮き世」という言葉から探っていけるだろう。
 夏目漱石は「浮き世」の意識にこだわった人でもあり、この世を生き抜く困難を描き続けた偉大な作家だが、重い胃の病気に苦しみ修禅寺で静養中に、生死の境を彷徨った際に見出した死生観の表出を読むと、身近に感じる人も少なくないのではないか。これを漱石風の「魂のふるさと」の発見、あるいは再発見とする必要はないと思うが、それに類する安らぎが見出された。エゴイズムに苦しむ人間を描いた漱石の透徹した人間観に畏敬の念とともに接してきた私のような者にとっては、大病の際の漱石の死生観に接するとほっと安らぎを感じる。修禅寺の大患の後の漢詩は体感的にわかるとはなかなか言えないが、終章で引用した以下のような俳句はどうだろうか。
  露けさの里にて静なり病
  あるほどの菊抛げ入れよ棺の中
 こうした「うた」を口ずさむことも死生観の探究につながるのではないだろうか。