コラム・読み物・声
第27回 坂井 祐円(本学会会員・仁愛大学)
いのちの時間を誰のために使えばよいか?
最近、私の周辺では、時間が加速しているように思われてならない。
時間はあまりにも速く過ぎ去ってゆく。仕事では、いくつか締め切りを抱えているが、その期日はすぐさまやってきてしまう(そして、大抵は間に合わない)。
「お忙しい中、すみません」。メールでのお決まりの枕詞。だけど、本当にその通り。まったく忙しい毎日である。何かの作業を終えても、また次の作業が残っている。同時にいくつかの仕事をこなさなくてはならない。まさしく自転車操業! いったい誰がこんな言葉を思いついたのだろう。ネットでググってみたら、「操業を停止すれば倒産するほかない企業が、赤字を承知で操業を続けていく状態」(広辞苑)のことを指し、自転車は走るのをやめたら倒れてしまう、というのが言葉の由来なのだそうだ。弁護士による債務整理のサイトに書かれている。
ミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出した。時間どろぼうがやってきて、いつのまにか時間がどんどん奪われていき、気がつけば自分を失っている、生きたままで心は死んだ状態になってゆく。とっても恐ろしい話である。
日野原重明先生は、「いのちは時間」であるとおっしゃった。今、こうしてコラムを書いていると、心に染みる良い言葉だなあ、としみじみ思う。いのちは目に見えない、形がない。それもそのはず、いのちは私という人生の時間なのだから。時間=いのちは、死に向かって突き進んでいる。有限である。だからこそ、いのちは大切にしなければならない。過ぎ去ってしまった時間は、二度と帰ってはこないのだ。時間=いのちを大切にするというのは、結局のところ、自分を大切に扱う、尊重する、ということにほかならない。
「いのちは時間」という言葉は、日野原先生が90歳を過ぎたころに、10歳の子どもたちに思いを伝えたいと思って、いのちの授業を始めたことが発端である。
「一度しかない自分の時間、いのちをどのように使うか、しっかり考えながら生きていってください。さらに言えば、そのいのちを今度は自分以外の誰かのために使うことを学んでください。」
と、日野原先生は子どもたちに投げかけた。
自分のためだけではなく、自分以外の誰かのために自分の時間を使う。誰かのために、自分のいのちを使うことが、本当にいのちを無駄にしないこと。
なるほど、なるほど、おっしゃる通りです。そう思いながらも、ここでふと疑問が湧いてきた。私はずっと、自分のためではなく、人のためにばかり時間を使ってきたのではないか。むしろ大人になると、自分の時間がどんどん減っていって、人のために何かしなければならない時間のほうが増えているのではないか、と。
それでいいじゃないか、それこそいのちの正しい使い方というものでは。ところが、自分より人を優先してばかりいると、なんとなく疲れてしまうのである。別に取り立てて嫌なことがあるわけでもないし、ときには充実感だって感じる時もあるが、どこかで「むなしい」と感じている自分がいるのも否めないのである。
どうやら、私のところにも、すでに時間どろぼうがやってきているようだ。スピリチュアルケアは、死に逝く人へのケアとして、スピリチュアルペインへの向き合い方を考えることから始まった。死に逝くのは、なにも肉体だけとは限らない。心もまた死んでしまいそうになる。というよりも、そもそもスピリチュアルペインというのは、それこそ心のほうが体に先んじて死に向かっている状態を指している。
いのちの授業では、誰かを思いやるためには、相手の痛みを知ることが大事だと教える。でも、その根底にあるのは、自分自身の痛みに敏感になること、もっと言えば、自分の痛みを自分で思いやることが大事なのだと教えている。だけど、自分を思いやるってどういうことだろうか。自分のことは自分ではなかなか思いやることができない。
ここで、ふたたび『モモ』の話に戻ろう。モモは、時間どろぼうによって時間を奪われた人々を救うため、マイスター・ホラのもとに導かれ、そこで「時間の花」を見せてもらう。
それは、丸天井の下で、光に照らされながら時計の振り子に合わせて浮かび上がっては消えていく、とてつもなく美しい花だった。けれども、同じ花は1つとしてなく、新しい花が生まれるたびに、今までで一番美しく思えてくる。時間の花は、1人1人の心の中にあり、生きている限り生み出され続けている。こんなにも輝いていて、こんなにも貴重なものに思えてくるのに、それぞれの花が咲くのは一度だけ、同じ花は二度と咲かない。
時間の花とは、いのちの花である。いのちは一瞬一瞬輝いている。どんな瞬間であっても、そのつど、いのちの輝きは一番美しいのである。
時間はどんどん過ぎてゆく。これでいいのかな、むなしいな、自分はダメだな、と思えることばかりかもしれない。でも、やっぱりいのちは輝いてくれているのだと思う。そんなときでもいのちは、何も言わずに支えてくれているのだと思う。これが最近のセルフ・コンパッションである。