コラム・読み物・声
第20回 小西 達也(本学会代議員・武蔵野大学教授)
「インターフェイス・ケア」解明の必要性
「インターフェイス」理論の不在
筆者は米国にてチャプレンとしての教育を受け、日米の病院および在宅にてチャプレンとしてスピリチュアルケアを実践してきた。スピリチュアルケアは多様な宗教的背景を有する人たちのいる「公共空間」で提供される。そこではケア「提供者」と、ケア「対象者」の信仰や価値観が異なるのが一般的である。つまり、スピリチュアルケアはほとんどの場合「インターフェイス(Interfaith)」(「異なる信仰間の」を意味する)であり、チャプレンや臨床宗教師などはそれを日々実践している。にもかかわらず、実はその「インターフェイス・スピリチュアルケア」の理論は未だ確立していない。
いわゆる「宗教的ケア」はある意味非常にシンプルである。「提供者」の宗教の教えが示す「あるべき生き方」を基盤として「対象者」の「生き方」を導いていけばよい。しかし「インターフェイス」な公共空間に出たとたん、その方法論は使えなくなる。自らと異なる信仰に基づいた人の、その信仰を尊重する形での「生き方」サポートが求められるからである。そしてそこでの原理や方法論が明らかにされていないのである。 それは日本のみならず多宗教社会の典型ともいうべき米国においても同様である。スピリチュアルケアのほとんどがインターフェイスであることを考えるならば、これは本分野の根本問題である。さらに日本を含め世界のいっそうの多文化・多宗教共生社会化の可能性を考慮するならば、「インターフェイス・ケア」理論の必要性は今後ますます高まっていくものと思われる。
「押しつけない」では不十分
「インターフェイス・ケア」について考えていく上では、まず宗教間関係の類型を整理しておく必要がある。米国ではポール・ニッター(Paul Knitter)のもの(Paul Knitter, Introducing Theologies of Religions, Orbis Books, 2002)が広く知られている。第一は「置換(Replacement)モデル」である。これは自らの宗教のみが真であり、他の宗教はそれに置き換わるべきと考えるものである。第二は「成就(Fulfillment)モデル」である。これは自らの宗教を最善としつつも、他の宗教の良い点についても学ぼうとするものである。この二つの類型は、自らの宗教の優位性を前提とするものゆえ、「インターフェイス・ケア」の基盤としては適さないであろう。第三は「共有(Mutuality)モデル」である。これは全ての宗教は同じ目的を共有しているが、そこに至るアプローチは多様である、とする考え方である。いわゆる「宗教多元主義」もここに分類される。「インターフェイス・ケア」との親和性の高さが推測されるモデルである。
しかしポストモダン思想をベースとした現代、最も主流なのは第四の「受容(Acceptance)モデル」である。これは各々の宗教は通約不可能であり、ゆえに互いの個別性を尊重し合うべきとするものである。その基本原則は「押しつけないこと」である。現在、世界のスピリチュアルケアは多かれ少なかれこの原則に基づいている。しかしそこには相互理解への可能性や動機づけは必ずしも含まれていない。また「押しつけないこと」のみではケアが具体的に何を提供するかが示されない。やはりケア自体の原理の提示が必要である。ただしそれはもちろん、「対象者」の「生き方」の「あるべき」(Sollen)を指示するものであってはならない。
スピリチュアルケアの本質としての「理解の正確さ」
そうしたケアの原理を含むインターフェイス・スピリチュアルケアの理論について考えるためには、まず「スピリチュアルケアとは何か」の明確化が必要となろう。実はこれについても世界的な統一的定義は存在しない。しかしホリフィールド(Holifield)によれば、米国ではその目的が「対象者」の自己実現にあるとの考え方が広く受容されているという(Holifield, A History of Pastoral Care in America: From Salvation to Self-Realization, Wipf and Stock, 2005)。そうしたいわば「自己実現のサポート」としてのスピリチュアルケアは、「置かれた現実下で可能かつ、本人がより納得いく「生き方」の発見と実現のサポート」と言うことができる。「提供者」は傾聴プロセスの中で「対象者」の表現を正確に理解、その的確な言語表現を「対象者」に返すなどしてその自己表現をサポートしていく。
その要となるのは「提供者」による「「対象者」理解」の正確さである。このことはもちろんインターフェイスなケアにも当てはまる。その場合はいわば「異他理解」の正確さ、ということになろう。(「異他(いた)」とは自らと異質性を有する他なるもののことであり、ここでは「提供者」にとって異他的な宗教を信仰する「対象者」を想定している。)ちなみにアウグスバーガー(Augsburger)は、異他についての想像的共感あるいは理解とも言うべきものを「インタパシー(Interpathy)」と呼ぶ(David Augsburger, Pastoral Counseling Across Cultures, Westminster John Knox Press, 1986)。
「インターフェイス・ケア」か「超宗教的ケア」か
しかし「異他理解」についてよくよく考えてみると、それが実現した時点で「異他」はもはや「異他」でなくなっているとも考えられる。なぜなら全くの異他に対してはそもそも理解も成立しないはずだからである。逆に言えば、異他的他者の理解とは、実は存在しているその他者と共通する次元や、そこから異他的他者の理解が可能となるようなメタレベルの次元が存在し、そこへの目覚めにより実現するようなものかもしれない。
そのようにして多様な信仰の理解が可能になった「提供者」によるケアは、「インターフェイス・ケア」というより「超宗教的ケア」と呼ぶべきかもしれない。そしてその主体として東洋の宗教等で言及される非対象的・非二元(不二)的な自己を考えることも可能かもしれない。しかし西洋的な対象論理に基づいた哲学は、私たちがいかなる場合も特定の個別的「ロケーション(Location、立場・立脚点)」に在ると考え、「超宗教的ケア」概念を否定するであろう。こうした事柄も「インターフェイス」議論の重要なテーマとなり得る。