第2回 木村 和子氏(本学会代議員・広報委員会委員)

 コロナ禍でどこへでも行きたがりの私にとっては、行動範囲がかなり縮小され、ゆとりのある時間が出来て、自分自身のスピリチュアルケアの原点を見つめ直す機会を得た。
原点は、死の看取りがわからなくなった家族にとって死を看取る事は、恐怖となったのか。死が間近に迫ると、家族はどうしていいのか分らなくなり、病院を頼ってしまう。病院で行われている医療は、検査・診断・治療・延命であり、治療効果がない場合には、少しでも延命させることに力を注いでいる。そして死に行く人々にも同じ医療を行ってきた。最期に手を握ってあげることも出来ず、そこに患者自身の意思とか、希望というものが入っていなかったのではないか。一生懸命救命したはずなのに、いつも虚しい思いに襲われていることに気づいた。出来るだけ痛みや苦しみが少なく、希望に応じ、その人らしく生を全う出来るよう、そっと寄り添い、耳を傾けられるように、感性や知識、技術を学びたいとスピリチュアルケアワーカーを目指した。
 私は看護師。原点はやはり看護である。看護とは何かと問いかけられれば、皆様はどのように答えてくれるでしょうか。今、コロナの事でかなり看護師の仕事が、マスコミ等で取り上げられているが、その答えは結構、難しいのでは。それは看護という仕事が、何か目に見える物を作ったりそれを売ったりする仕事ではなく、誰が行っても同じ動きが出来るような「ルーチンワーク」的な仕事でもなく、さらに植物や動物を育てる仕事でもないからだ。
 看護師が行う看護という行為は、まず相手の状況を看護の眼で観察し、頭の中で「どのような援助が必要か」を描き出し、患者さんに合わせた看護を提供して行くという「一回限りの行為」である。看護師一人ひとりの思考力や判断力が不可欠であり、そこに看護師の人間性が加味されてくる。看護師の人となりや教育の背景などによって、看護の原点に違いがあっては困る。「看護とは何か」のテーマについて看護師なら誰でも同じ答えが出せるように、共通の看護原理を持つように教育されなければならない。そして、看護師は患者さんのベッドサイドに寄り添い話を聴くのが基本の姿勢である。患者が訴えてから動くのでは遅いのだ。訴えを表現する前にその苦痛に気づいてあげ、看護を提供するのが私達の役割で、常に先手の看護を行い、後手に回らない様にアンテナを張り巡らせて仕事をしている。
 看護は全て観察に始まり観察に終わる。患者が訴える前に、観察によって、訴えたいことを読み取り的確に対処してゆくことが求められる。学習中に一番悩んだのは、「待つ」という行為だった。看護は先手であると日々ケアしているに、何故待つのかにつまずいた。そのときに「待つ」を「待つケア」と言い換えた。
 「ケア」という言葉は日常生活で一般的に使われている単語で、誰でも気軽に使っているし、また誰でもケアを気軽に行為化している。ケアという単語は、世話・配慮・気遣い・気配り・注意という意味を持っている。ケア=看護ではない。看護が本来の姿を表現するには、その行為において配慮や気配りや注意がきわめて大切であり、すなわち看護=配慮となり、「待つ」という行為も相手への配慮であり看護であると確信した。
 スピリチュアルケアは、人生の節々の段階に訪れる心身の変化や、心身に痛みや傷を持つ人々、老齢により弱まった人々が、自分の置かれている状態を受け入れ、それを乗り越えまたは苦痛と共に生き切ろうとする時、医師の持つ優れた診断や医療技術と共に、患者に寄り添い、患者の中の生きようとする力を引き出し、一人ひとりが苦しむ他者に寄り添う。自らの技術と感性とを磨き続け、医療が全ての効力を失った後もスピリチュアルケアワーカーはその人と共にある。そんな使命を持っているのではと思う。
 今、知的障害者の施設に勤務している。相模原殺傷事件の時、一人の利用者が側に来て私の手を握りしめ「僕は生きていていいの」と聴かれ、加害者の残酷さ事ばかり報道され、障害者の孤独でつらく、悲しい目線に立っていなかった事にハッとした。「大丈夫、あなたは大切な人よ」とぎゅっと抱きしめた事を思い出す。同じ目線に立ち、寄り添って、耳を傾け、共感し、微笑んでくれる時を待つ。こんな日々である。