コラム・読み物・声
第22回 髙橋 一天(本学会会員・NPO法人日本スピリチュアルケアワーカー協会)
NPO法人日本スピリチュアルケアワーカー協会に属する髙橋一天と申します。今秋の第15回学術大会で、当協会が主催団体の一つになったことから、山添正大会長(日本スピリチュアルケアワーカー協会会長)、大下大圓実行委員長(当協会副会長)の下で、実行副委員長としてお手伝いさせて頂く運びとなりました。
著名な専門の研究者や諸先生方が寄稿されているコラム欄に、専門家でもなく一介の会員にすぎない私が何故記事を?と疑問と重責を感じつつ寄稿いたしますが、どうか寛容な視座で読み流して頂ければ幸いです。
私は旅好きで好奇心が旺盛、これまで多くの国々や地域を訪れ、そこで様々な歴史や文化、宗教や習俗などに触れることが出来た事は、少なからず自身の世界観や視野を拡げることに繋がったものと思っています。なかでもネパールやチベット、インドはとても印象的であり、その世界観や宗教観に惹かれ、シンパシーも感じ幾度となく訪れて来ました。
自身が密教僧ということもあり、日本仏教のルーツとしての関心はもちろん、ヒマラヤへの憧れ、哲学的な思想や壮大な宇宙観に興味が沸いたことなども、より旅心を駆り立てたものと思います。
行くたび驚きや発見がありますが、何度かヒマラヤをトレッキングしていた時に鳥葬の場に出逢いました。一ヶ所にハゲタカが幾羽も群がっており、いわゆるチベットの葬送方法のひとつで天葬というものでした。チベットのシャーマニズム的ポン教の古い習俗がルーツともいわれ、死んだ身体の屍肉を鳥や動物に布施をする行為です。人間は生きるため家畜などの動物を殺生し食する。逆に自分が死んだら自らの身体を動物たちに与えることが布施という行為になると考えるわけです。
仏教の始祖お釈迦さんの前世にまつわる説話「ジャータカ」の、前世のひとつ薩埵王子が、飢えた虎と7頭の仔虎を救うため、自ら崖上から身を投げ身体を与えた「捨身飼虎(しゃしんしこ)」というお話が想起されますが、このような仏教の教えが影響したのかもしれません。チベットでは、肉体に魂は残さず、魂の抜け殻は鳥や動物の餌として食べやすいように部位を解体して天葬します。
伝統的な魂魄死生観の我々日本人にはかなり抵抗のあるショッキングな葬送法ですが、厳しい自然環境下では火葬燃料問題もありそれなりに理にかなっているとも思えます。チベット密教では輪廻転生は信じられており、現生は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の中のひとつの通過ステージと捉えます。僧侶見習いの子供はこの屍体解体現場を観察させられ、生死観を学ぶそうです。
ダライ・ラマ法皇は擦り切れた衣服を脱いで新しいのに着替えるのと同じだと言っています。また、古くなった肉体が滅びても意識は絶えないので、活力にあふれた新しいからだで出直すと考えます。
30年ほど前に話題になりNHKでも放映された「チベットの死者の書」という埋蔵経「バルド・トドゥル」が説く生死観を思い出しました。臨死のもの、または死後直後のものはまだ聴覚が残っているため、死後の世界で待ち受けるプロセス、真理の教えを耳元で聞かせ、準備と安心感を与える仕組みです。中間や途中のことを“バルド”といいます。連綿と続く意識(意成身)が肉体の抜け殻を出て次なる生(光)、再生に向かうまでの期間をいいます。執着は意識を屍体や骨に残してしまう。それを防ぐにはこの教え、生死観を生きているうちに学ぶことがより大切です。
ダライ・ラマ法皇は、日常生活において、厄介ごとへの日頃の備えにより慌てなくて済むのと同じで、死の備えをしておけば動転しないで済む、死、バルド、再生の過程を日々修行しているので死を待ち望む気持ちすらあると言っています。「メメントモリ」、死を想うことは、生きている我々に投げかけられた“如何に生き如何に死ぬか”という生死観なのでしょう。
8年前末期がんの師匠を見送りました。生前チベットの世界観に魅せられ、「“虹の身体”を得るために」と探求を深め、死をも好奇心の延長線にすら捉えているような人でした。
死の前日、時折意識混濁に陥り、現世とバルドを行き来していると思われる状況の際、かろうじて意識が戻って来たときに訊いてみました。
「あちらの世界は綺麗でした? 光に溢れていますか?」と。
すると目元、口元が微かに笑い軽く何度も頷きました。おそらく学んだ世界観をリアルに体験していたのでしょう。翌朝静かに旅立って逝きました。不思議に哀しみというよりも、羨望に近い感覚を得たことを憶えています。
チベットの死者の書曰く
「汝よく聞くが良い。死は誰にでも起こることである。この世界から外に行くのは汝一人ではないのだ。この世に執着を残してはならない。執着してもこの世に留まる事は不可能である。」
正解などないのかもしれませんが、多様な死生観(生死観)や宗教の教義に触れることは豊かな生に結び付くように思えてなりません。
合掌