第4回 安藤 泰至(本学会代議員・広報委員会委員)

医学・医療に潜む非人間性とスピリチュアリティ

「医学部に勤める宗教学者」という奇妙なポストに就いてから、今年で25年になる。それまで9年間勤めていた工業高専から転勤してきたときは、「医学や医療は人間相手の学問や実践だから、モノ相手の工学系研究者よりは話が通じるだろう」と期待していたのだが、なんとも甘かった。あまりのカルチャーショックと自分の居場所のなさに転勤直後から鬱になり、結局一年間休職する羽目になった。いま思い起こせば、私がここまで生命倫理や死生学といった分野でそれなりの仕事を重ねてこられたのは、その後もこの医学部という環境に慣れることも馴染むこともなく、最初に感じたその大きな違和感を大事にしながらいろんな問題を考えてきたおかげかもしれない。その違和感を一言で言えば、「医師や医学者のほとんどは、実は人間には関心がないのではないか」ということだった。

 「病気を診ずして、病人を診よ」とか「患者中心の医療」などといった言葉を目にすることは多いが、このような当たり前のことをわざわざ強調しなければいけないのは、「病気」にしか関心がなく「病人」には目もくれない医師や、実際の患者の苦悩に向き合うよりもデータの蓄積や医学の進歩への貢献を優先しているような医師が多いからだろう。私の現在の研究・教育の中心になっている生命倫理や死生学について勉強し始めたのは、医学部に転勤してからのことだが、その過程でわかってきたのは、近代医学や医療というもののなかに、「人を人として見ることを妨げるようなまなざし」というものが内在しているということだった。極端なことを言えば、「患者」という言葉自体がそうだ。別に「患者という人」がいるわけではなく、○○○○さんという固有の名前をもち、固有の生活を営み、人生を歩んでいる一人の人がたまたま「患者」になっているだけの話であって、「患者」という側面はその人のほんの一面にすぎない。こんな当たり前のことすら、医療現場ではしばしば忘れられがちになる。また、よく私が言うのは、「意識がない」という言葉は不正確で間違っているということだ。「意識がある」ことは呼びかけへの反応などから証明できるが、「意識がない」ことはけっして証明できない。つまり正しくは「意識不明(意識があるのかないのかわからない)」ということであるはずなのに、「意識がない」と言ってしまう。それは、その人は何をされていても、傍らで何を言われていても気づかないような存在、「物体」とまでは言えなくとも、私たちと意思疎通できるような「人間」だとは見なされていない、ということではなかろうか。「徘徊」などという言葉もそうだ。辞書を引くと「徘徊」とは「意味や目的もなく歩き回ること」などと出ているが、人はけっして意味も目的もなく歩き回ったりしないものだ。そのように見えるのは、その人が何をしようとしているのかを探り、理解しようともしないで、それにたとえば「認知症の症状」というレッテルだけを貼って済ませている側の問題だということに気づいている人は少ない。

 特定の信仰をもたない宗教学者として、私はこれまでスピリチュアリティについてのいくつかの論考を書いてきたが、スピリチュアリティというものはなによりも「人が人であるということの本質」だと考えている。それはけっして特定の人だけがもつ性質でもなければ、特定の精神的な危機の際だけに出現するものでもない。そういう見方からすれば、人を人として見ることを妨げているような医学・医療特有の「枠」自体が、スピリチュアリティを阻害していると言うことができる。そして逆に、そうだからこそ、実際の医療現場に立つ医師や医療者はそのことを意識して、患者という「人に」、自らも「人として」関わるという姿勢が必要とされるのであって、そのことこそがある意味でスピリチュアルな営みなのだ。

 医学教育や医療者教育において、スピリチュアリティやスピリチュアルケアについての教育が必要だ、ということがよく言われる。しかしそれは何も、「スピリチュアリティ」や「スピリチュアルケア」という言葉を普及させたり、そうした学問的・実践的領域についての基礎を教えたりする、ということ(だけ)ではないだろう。何よりも大切なのは、医師や医療者を目指す人々や、実際に臨床の現場で活動している人々が「人を人として見る」ということを学び直すこと、医学・医療の枠組みがそれを妨げていることを意識し、自覚できるようなきっかけと場を与えることではないだろうか。私が生命倫理や死生学の領域で書いてきたことや発言してきたこと、大学での教育や医療者の卒後教育の場で実践してきたことがその一助になってきたのかどうかを自問し続ける日々である。